ゼーン・グレイ

―海、さかな、船、ひと、そして釣り

子供たちが父に贈った一冊の本

文・須賀安紀


 夢を、現実のものとした男がいた。そして彼の現実を夢とする、多くの読者がいた……

 想いは、想いを呼ぶのであろうか。
 父を想う子供たちの、伸びやかで柔らかな愛情に包まれた一冊の本が、六十余年の歳月を経て、今、私の書棚にある。
 その本が子供たちから父に手渡されたのはアメリカのどこの町であろうか。海辺か、それとも凛とした空気に包まれた渓谷の町であろうか。ただ、温かな家庭であったことだけは、容易に想像がつく。
 その日は、父の誕生日であったに違いない。二人の姉妹から父に贈られたその本には、次のように記されている。

“To Dad from Edna and Alyce June 19, 1938”


 彼女たちの父は、狂の字が付くほどの釣りマニアであったのか? それとも、当時のベストセラー作家であった、その著者の、熱烈な信者であったのだろうか……? この本を手にするたびに、私の想いは広がるばかりである。

Tales of the Anglers Eldorado, New Zealand

 それは、数多くの西部劇小説で巨万の富を築いた男が、世界の海を釣り歩いた際の、偉大なる釣行記の一つである。彼、ゼーン・グレイは、四十九冊の小説を世に出し、釣りに関する八冊の書を著わした。彼は、世界で初めて、ロッドとリールで1000ポンド(約454L)を超える魚を釣った男であり、十を超える海釣りの世界記録を達成したこともある。そして何より、とてつもない金と精力と厖大な時間を、釣りのために捧げた男であった。より大きな魚を求め、より鮮烈な感動を求めて、子供のように輝く目を持ち続けた男であった。

 彼は190フィートのスクーナーで、ガラパゴス、サン・ルーカス、ニュージーランド、タヒチと釣行を重ね、晩年にはさらに大型のスクーナーでオーストラリアにも遠征をした。その際に彼が発見した暗礁は、“ゼーン・グレイ・リーフ”として、今も正式にその名を留めている。
 この本は、1926年に彼がニュージーランドに遠征した際の記録である。そして、同書はその年に出版されている。
 私が、漠然とした夢を抱えて、南の島のビーチコマーであった頃、ホノルルから取り寄せた一冊の本の中に、ゼーン・グレイと大魚との一葉の写真があった。それは、釣り師としての彼であった。小説家としての彼を知ったのはその2年後、ナイロビにあったインド人の経営する、ジャスミンの香りに包まれた書店であった。今から十年ほど前のことである。

 一枚の写真が、小説の中の数行の描写が、そして洋上での一瞬の体験が、いつまでも心の片隅に生き続けることがある。

 大魚を求めてガルフ・ストリームに白い航跡を刻んだヘミングウェイの『ピラール号』に、グレイの釣行記は積まれていたのだろうか? 洋上で、取り憑かれたように魚を追っていたヘミングウェイのキューバの時代は、エドナとアリスの父にとっても、見果てぬ夢を追い求めた時代であった筈である。その父が手にした本を、半世紀以上も後に、少しばかり海と魚に想い入れの強い男が、やたらと想像を巡らせながら同じ想いで頁をめくっている。


 エドナとアリスは、今もアメリカのどこかで平穏に暮らしているかもしれない。彼女たちのことに想いを巡らせている日本人がいようとは、露も知らずに……。
“フィッシャーマン号”のようなスクーナーにフィッシング・ボートを積んで、世界を釣り歩きたい。いや、せめて私なりの“ピラール号”で大魚を追うのが関の山か……。
 私もまた、華と生きた男たちの現実を夢とする男なのだろうか……。
 船は、男の最高の玩具である。そして、心に残る大物釣りは、記憶の中でいつも新しい。半世紀を経ても輝きを失わない一冊の本のように……。


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