HEMINGWAY
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| 907 WHITEHEAD ST. Key West, Florida キーウエスト。フロリダ半島の南端から、120マイルに渡って南西へと連なるキーズの最果て。ココヤシとライムが繁り、メキシコ湾と大西洋に接しながらも、ガルフストリームによって運ばれるカリブの風を常に感じるアメリカ最南端の小島。それがキーウエストである。 キーウエストと聞いて、すぐにアーネスト・ヘミングウェイを思い浮かべる人々は意外にも多いが、彼がこの地で過ごしたのは、1928年4月から1939年12月までのわずか12年足らずにすぎない。ヘミングウェイの61年に渡る生涯の中で、12年という年月を短いと判断するべきか否かは迷うところだが、作家としての一歩を踏み出したパリ時代から、熟年のキューバ時代へと移行する、ちょうど過渡期的な役割を果たしたのが、キーウエスト時代の12年間と言えるだろう。 「スロッピー・ジョーズ」のジョー・ラッセルをはじめとする仲間たちとの交遊は、パリ時代のガートルード・スタインやジェームス・ジョイス、エズラ・パウンド、スコット・フィッツジェラルドといった同時代作家達とのどこか緊張した関係とはまったく異質の、放埒で自由で伸び伸びとした喜びをヘミングウェイに与えたにちがいない。 |
| こうした自由な空気が刺激となり、キーウエスト時代はヘミングウェイの生涯で最も多作な時期でもあった。まず、1929年に出版された『武器よさらば』に始まり、闘牛論を展開した『午後の死』(1932年)、短編集『勝者には何もやるな』(1933年)、アフリカでのサファリ体験をもとにしたノンフィクション『アフリカの緑の丘』(1935年)、短編小説『キリマンジャロの雪』(1936年)と『フランシス・マッコーマーの短い幸福な生涯』(1936年)、キーウエストを舞台にした『持つと持たぬと』(1937年)、唯一の戯曲『第五列』(1938年)、そして『誰がために鐘は鳴る』(1940年)である。これらの作品群は、まさにヘミングウェイ文学の中核をなすものであり、彼の作家としての地位と人気は、人目を引く行動や暮らしぶりとともに広く一般に知れ渡り、揺るぎないものとなった。 |
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| ヘミングウェイはパリ時代の知人友人たちに招待の手紙を何通も書き、「貧乏人のサントロペ」と呼んでこよなく愛したキーウエストに多くの人々を招いている。中でも、最も頻繁に訪れたのは、キーウエストへの移住を薦めた張本人、ドス・パソスであった。ドス・パソスはここで、アーネストの幼友達であり、また偶然にもポーリンの大学時代のルームメイトでもあるケイティー・スミスと出会い、やがて結婚することになる。 しかし、キーウエストに移ってからのヘミングウェイは、ドス・パソスや一部の人々を除き、パリ時代に親交があった文壇仲間をまるで忘れてしまったかのように交際を絶つ。文学上の師匠とも言えるガートルード・スタインやシャーウッド・アンダーソンとは、『春の奔流』(1926年)の中で彼らをパロディーとして書いて以来、絶交状態であったし、『華麗なるギャツビー』で知られる人気作家スコット・フィッツジェラルドとも、彼の妻ゼルダとアーネストとの馬が合わず、手紙のやり取りだけがなんとか続いていた。 |
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