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| 常連は有名人 1984年、1649Lb(748kg)のモンスターを検量台に吊るした1枚の写真は、世界の釣人たちを震撼せしめた。 バート自身の前年の1265Lb(570kg)に続く快挙であった。 いつもそうであるが、バートは新しい記録を樹立すると、その翌年には必ずその記録を更新してみせている。もしもこれが“偶然の幸運”だとしたら、このように連続する筈がない。 連続させることにおいて、彼の実力を見事に実証してみせている。いまやバートの実力を疑う者は誰もいない。釣りマスコミは揃って彼を“天才”ともてはやした。 しかし“天才”といえども幸運がもたらしてくれたものではない。 バートの場合は1%のインスピレイション(霊感)、99%のパースピレイション(汗)、すなわち他の追随を許さぬ彼のサムシングは努力と忍耐がもたらしたものだ。 一躍にして名を馳せた「BLACK BART」に釣客が殺到したのは当然のことであった。 かつて2人の釣客が1週間続けて「BLACK BART」をチャーターしたことがあった。 バートは2人の名前も顔も覚えがなかったが、1週間のチャーターが終わるとその1人がバートに、 「キャプテン! われわれを一般の釣客と差別なく同じように扱ってくれてありがとう。お蔭でとても楽しかったよ」 バートは態度容姿からもう1人の釣客が気になっていたので、 「連れの方はなにをやっている人かね?」 と聞くと、 |
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「ジーン・ハックマンだよ」 あっけにとられたようなバートにさらに説明してくれた。 「映画『フレンチ・コネクション』でアカデミー賞をもらったジーン・ハックマンだよ」 と。 実際、「BLACK BART」の常連客には有名人が多かった。バートは映画スターのリー・マービン、ウイリアム・コンラッド、ディアハン・キャロル、……、日本人ではノボル・ゴトウ(東急コンツェルンの大御所、故五島昇氏)などを列挙してみせた。 当時(1987年)、コナの1日のボートフィは、大型艇で400ドル、中型艇は300〜250ドルぐらいであった。 ところが「BLACK BART」は700ドル、倍に近い料金を取っていた。もちろん「BLACK BART」は人並以上にお金をもらう“資格”があったのである。 |
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| “日本実業家”その人は? さて拙文ながらキャプテン、バート・ミラーの半生を駆け足で紹介した。 しかしここにきて25万ドルもの豪華ボートをポンとバート・ミラーに買い与えた快(怪)男児を紹介しないわけにはいかないようだ。 その人物はかつてコナで屈指のボート「WILD ORANGE」のオーナーであった、といえばご存知の方も多い橘繁行氏のことである。 昭和6年、京都府下の生まれ。学業も半ばにいくつもの仕事を転々とした極貧の青年橘繁行は、ひそかな大望を抱いて上京した。 やっとありついた仕事は、新聞の募集広告で応募した那須別荘地のセールスマンだった。当時ブームを呼んでいたとはいえ、厳寒僻地のやせ地などおいそれと売れるわけはなかった。それでも夜も休日もなく必死に働いた。 櫛風沐雨、ついに彼は成功して独立。渋谷で同じ不動産開発販売の会社を営んでいた。 もとより釣り好きの彼は、その頃三宅島の漁船のオーナーにまでなって漁師なみの釣り三昧。 そんなある日、なんの気なしにテレビをつけたのが彼の運命を決する引き金になった。 画面はHIBT(Hawaiian International Billfish Tournament)の実況中、折しも日本から参加した大京観光(株)の横山社長が巨魚をかけて必死のファイティング……やがて巨大なキハダを釣りあげる……。 テレビでかいま見たハワイのトローリングは血を躍らせ、激情押え難く、ついに彼はコナに飛んだ。 もちろん、コナ沖の巨魚は彼を魅了してやまなかった。 それから毎月1回のコナ通い、しかし旅費、滞在費、ボート代など経費が馬鹿にならない。 そこで彼は決断し、10数年間営々と築きあげた全財産を処分するやコナに移住した。 知人、友人たちは「気が狂ったのでは?」と真剣に彼を疑ったが、「釣りは“好き”ではダメだ。“狂い”でなければいけない」というのが彼の信条。そして彼の“狂い”ぶりはますますエスカレートする。 いま思えばバートに25万ドルものボートをポンと買い与えたことは、いちがいに成金のばらまきとばかりはいえないようだ。 「どんなに忙しいときでも週5日は釣りに出た」そうで、操船から釣り方までバートのノウハウのすべてを教わっているからだ。加えて彼が贈った「BLACK BART」は世界のビルフィッシャーの羨望の的となった。むしろ彼の慧眼であったかも知れない。 その後、彼は再びバート・ミラーに依頼して「BLACK BART」と同じメリット社の37フィートの豪華ボートを購入、「WILD ORANGE」と命名した。“ワイルドオレンジ”とは“野生のオレンジ”、すなわち“橘”のことである。 |
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かって逆境に育った極貧の青年は、いま名艇のオーナー、キャプテン・タチバナとなってハワイの豊饒な海をわがものにした。 さすがバート・ミラー仕込みの“狂い”だけに「WILD ORANGE」の活躍は目覚ましく、いまなお当時の勇名を記憶している人も多い。 やがて彼は昔とったきねづか、コナで不動産開発を始めた。80%が州有地で水源確保もままならないハワイ島で、多くのコンドミニアムを建設したことは、仕事も釣りにまさる“狂い”でなければなせるわざではない。 その頃、橘氏に一通の手紙が届いた。手紙の内容は「トローリングのご指導を賜わりたい……」と。差出人は「大西英徳」、当時のジャパンゲームフィッシュ協会会長である。 「とにかく厳しいものでした。フックアップしたときすぐにロッドに飛びつけるように、炎天下といえどもキャビンにはいることも許されず、食事もデッキで立ったままでした。キャビンにはいると、ついソファに座って体を休めてしまうし、昼寝する人もいますからね……」 と大西さんは回想し 「やはり橘さんはゲームフィッシングの神様でしたね」と。 その翌年、1978年のことである。 |
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「WILD ORANGE」でHIBTに出場した大西氏は593Lbのブルーマーリン他3尾を釣りあげ、見事個人優勝と国際賞を獲得した。 釣人にロマンとエピソードは多いが、今さらながらビッグゲームに魅せられた人々のロマンに想いを馳せずにはいられない。コナに集った人々の情熱は今、我が日本において大輪の花を咲かせている。 |