BIG BLUE
〜6〜
写真と文 須賀安紀
Written & Photographed by Aki Suga

こんな時代に誰がした…!?

猫のからだのような柔らかさの下に
稲妻の鋭さを隠している海。
ああ、この色を僕の眼の色にできるなら
生きてゆく楽しさを人にわかつこともできるだろう。

by 中桐雅夫


 台風、豪雨、地震、津波と、このところ立て続けに列島を襲う自然の脅威に、今まで見て見ぬふりをしてきた環境への無配慮が今、大きなしっぺ返しとなって、私たちを覚醒させようとしているように思える。
 地球温暖化がもたらす悲劇的なシナリオに関しては未だ、因果関係が証明されていないからと口ごもる学者もいるが、毎年確実に上昇している海の平均水位の報告を前に、既に人類と地球環境のチキンレースが始まっていることを実感する。巨大な隕石との遭遇で、劇的な環境変化を経験し、その後、何万年というスパンで再び母なる海と緑の大地を再生した地球の奇跡の恩恵に浴してきた人類が、僅か100年、特にこの50年で繁栄と裏取り引きをする形で地球環境に大きなダメージを与えようとしている。地球はその体内に、人類というタチの悪い癌細胞を抱え込んでしまったのである。
 利便性、快適性を追求する約束手形に、私たちはこれまで何ひとつ疑うことなく裏書きを続けてきたわけだが今、その手形が不渡りになろうとしている。
 海は地球上の水系の最終的な貯蔵庫として、また、絶えることのない動きにより、熱とさまざまな栄養素を循環させ、同時に陸地の気候と天候をも左右する、私たちの心臓にも似た重要な役割を担っていることに、私たちはあまりにも無頓着でありすぎたわけである。
 人類の悪業が地球上の気候に及ぼす影響については未だ、科学的な仮説の域にとどまっているのが現状かもしれない。ただ1990年の『第2回世界気候会議』では“『温室効果』を引き起こす気体の排出を防止しなければ、21世紀には世界的な温暖化は2〜5℃に達し、21世紀末には海面は65cmほど上昇するだろう。ただし海洋の役割をはじめ、世界の気候体系における各種の因果関係が不明確であることから30〜100cmの誤差があるかもしれないが…。”との合意がなされている。しかしこの100年の急激な地球温暖化のスピードは過去1万年を見てもその先例が無いことに背筋が寒くなる思いがする。同時に発表された予測シナリオには“海面の温暖化によってハリケーンや熱帯の暴風が発生しやすくなり、その勢力が増す。さらに熱帯と亜熱帯の地域が広がることにより、熱帯性の暴風が発生する範囲が移動し、恐らく拡大するものと思われる…”とあった。約15年前にこの世界気候会議で発表された合意とシナリオの渦中に今、私たちがいるのである。

 ビッグゲームに話題を転じてみれば、黒潮の動きと水温分布に私たちのカジキ釣りはその殆どが委ねられている。今年は台風で、主要なトーナメントの幾つかは中止に追い込まれた。ボートのレストアに励み、カジキを狙うにベストの装備で挑んでみても、そこにカジキがいなければ、これは糠に釘打つ無為なスポーツとなる。いやいや、ただ洋上でルアーを曳き続けることが男のロマンと、何やら達観したセリフを吐きながら例の“メキシコ湾流に小舟を浮かべ、ひとりで魚をとって日をおくっていたが、一匹も釣れない日が84日もつづいた…”というヘミングウェイの小説に自身をなぞらえ、ヒロイックに情熱を鼓舞しようと努めても、それが100日にも及ぶと、ドン・キホーテ染みた自身に、いささか憔悴してしまうことだろう。

 少子化に悩む日本とは裏腹に、地球的視野で見れば人口の爆発的な増加は確実に進行しており、沿岸地域の工業開発とそれに伴う人口の集中、さらに海洋レクリエーション水域の拡大によって環境の悪化と同時に、海岸線に沿って存在する多彩な種の生息地の喪失が加速されている。多くの人々が沿岸地域をさまざまな方法で利用しているが、その利用方法を巡って、さまざまな矛盾が生じている。
 ここでも『健全で持続可能な…』という言葉が錦の御旗となるわけだが、人々が海の利用を続ける限り、海洋環境とそこに生息する種の保存の問題は避けて通ることのできないテーマとなる。
 小学生の頃に観たジャック・イブ・クストーの『沈黙の世界』が、その後の私のつたない歩みに与えた影響を思う時、今再びクストーの辛辣な言葉を反芻しておこうと思う。
 それは次のようなものである。
 「娯楽のための魚とりは、決して英雄気どりで行なうべきものではない。1000馬力のエンジンをつけた機動性に優れたボート、それに最新の素材を使い、工夫を凝らした釣り竿やリール、釣り糸を使い、ベテランのガイドと彼らの経験を更に確かなものとする電子航海機器を使って大魚を追い求め、とどのつまりは自分の身の丈を超える獲物と並んで喜色満面で自慢の写真を撮ってもらう釣り人を見るにつけ、私には、これは壮大ではあるが、何とも救いようのない亡者の業(わざ)としか思われず、身も心もくずおれてしまう感に襲われるのである。何とか生き延びようと懸命にジャンプを繰り返す魚は一見、苦しそうには見えないかもしれない。しかし、たとえもの言わぬ海の生物でも、近寄る死のために、激しく苦しんでいないとは、誰にも言えないのである。レジャーのための釣りはヒロイズムやロマンチックな想像とは無縁のものであり、決して自身の人格の高潔さや勇気を示してはいない。実際、釣り糸にかかった巨魚と共に、自分自身をも破滅させるための長く苦しい努力をすることなどは、実にばかげたことではないだろうか…」
 このクストーの言葉によらずとも、釣魚の保護・育成という言葉は、魚を釣るという行為とは明らかに矛盾するものである。百歩譲って単純な自然保護論者に我が身を喩えてみれば、とにもかくにも釣り竿を手放し、フィッシュ・ウォッチングのみに徹すればよいようにも思えるが、私にはそれが懸命な方法とは思えないのである。

 クストーの辛辣な言葉に対する反論として私はいつも次の言葉を用意している。既に何度も書いていることだが、釣魚(自然)保護と釣りに関わる議論の最後に残るテーマであると思うので私は何度でも書く。
 それは次のようなものである。つまり、人は感動に生きる存在であり、全神経を使った魚との対峙、同時に多くの満足や後悔、その矛盾の中にどっぷりと身を浸してこそ、はじめて魚(自然)を知ることができると思うのである。自然を知らずして自然を思うこともなく、釣魚の魅力を知らずして釣魚への慈しみも生まれるわけがない。釣りを始めようとする子供たちに、頭ごなしにリリースを説くことなどは愚の骨頂と考える私にとって、今は辛い時代ではある。まずは自身の身の丈を知ることであろうか…。

(『パーフェクトボート』(ネコパブリッシング)掲載分より)


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