BIG BLUE
〜10〜
写真と文 須賀安紀
Written & Photographed by Aki Suga

娘たちが父に贈った一冊の本

 日本の釣りの世界は今、非常に歪(いびつ)で脆弱(ぜいじゃく)な基盤の上に成り立っている。
 春のうららの中で釣りに出かけてみても、近郊にはもはや“小鮒釣りしかの川”は無く、かくあらば海に向かい、気軽な堤防釣りをと決め込もうにも、行く手には無粋な“立ち入り禁止”の看板が純情無心な父娘の闖入(ちんにゅう)を断固として阻止するべく威圧的な真っ赤な文字で私たちを睥睨(ルビ:へいげい)している。ならばと、娘の手前大いに奮発してY社のレンタルボートで釣りに出かけると、なんと娘にとって初めてのヒラメが釣れたと大喜び…。しかしよく見ると放流時のタグが付いていた…。
 更にあたりを見回せば、この地球に害魚なんぞはいるわけもないのに今や、ブラックバスは悪魚の代名詞のような扱われ方である。それもこれも全て人間のエゴ。魚はなにも悪くないのに…、と思わず我が同族のホモ・サピエンスの遺伝子が鬱陶しくもなってくる。彼ら魚族こそ、憤懣やるかたない思いで今を懸命に生きているのである…。
 と、僅かこれだけの文章を書き連ねてみても、たちどころにさまざまな議論のキーワードが炙(あぶ)り出されてくる。環境破壊、行政・法令との不調和、資源減少、絶滅危惧種、持続可能性、標識放流、沿岸開発、生態系、遺伝的多様性、遊魚と職漁、乱獲、開発と調和…。
 そこには野生の息吹とか、たおやかな自然との出逢いなど微塵も感じられない、切羽詰まった関係だけが見てとれる。
 そんな状況の中、育ちゆく娘たちを眩しく眺めながら、さまざまな想いに駈られることがある…。
 
 かつて、釣り人の夢を現実のものとした男がいた…。そして、彼の現実を夢とする多くの読者がいた…。
 父を想う子供たちの、伸びやかで柔らかな愛情に包まれた一冊の本が、70年近い歳月を経て、巡り巡って今も私の書棚にある。
 その本が、子供たちから父に手渡されたのは、アメリカの何処の町であろうか。
 海辺か、それとも凛とした空気に包まれた渓谷の村であろうか…。ただ、温かな家庭であったことだけは容易に想像がつく。
 その日は、父の誕生日であったに違いない。
 二人の姉妹から父に贈られたその書籍の、見返しの部分には、次のように記されている。

 二人の姉妹から父に贈られたその書籍の、見返しの部分には、次のように記されている。
“To Dad
from Edna and Alyce  June 19, 1938”
 彼女たちの父は“狂”の字が付くほどの釣りマニアであったのだろうか? それとも当時のベストセラー作家であった、その著者の、熱烈な信者であったのか…!? この本を手にするたびに、私の想いは広がるばかりである。
 
『Tales of the Anglers Eldrado, New Zealand』
 それは、数多くの西部劇小説で巨万の富を築いた男が、世界の海を釣り歩いた際の、偉大なる釣行記のひとつである。
 彼、ゼーン・グレイは、49冊の小説を世に出し、釣りに関する8冊の書を著わした。

 彼は、世界で初めてロッド&リールで1000ポンド(約453kg)を超える魚を釣った男であり、10を超える海釣りの世界記録を達成した男でもある。そして何よりも、とてつもない金と精力と厖大な時間を、釣りのために捧げた男であった。より大きな魚を求め、より鮮烈な感動を求めて、子供のように輝く目を持ち続けた男であった。
 彼は190フィートのスクーナーで、ガラパゴス、カボ・サン・ルーカス、ニュージーランド、タヒチと釣行を重ね、晩年にはさらに大型のスクーナーでオーストラリアにも遠征をした。その際に彼の発見した暗礁は“ゼーン・グレイ・リーフ”として、今も正式にその名を海図に留めている。
 この本は、1926年に彼がニュージーランドに遠征した際の釣行記である。
 私が漠然とした夢を抱えて、南の島のビーチコマーであった頃、ホノルルから取り寄せた一冊の本の中に、ゼーン・グレイと大魚との一葉の写真があった。それは釣り師としての彼であった。小説家としての彼を知ったのはその2年後、ナイロビにあったインド人の経営する、ジャスミンの香りに包まれた書店であった。今から25年ほど前のことである。
 
 一枚の写真が、小説の中の数行の描写が、そして洋上での一瞬の体験が、いつまでも心の片隅に生き続けることがある。
 大物釣りの醍醐味は、まさにその一瞬の記憶を辿ることにある。

 大魚を求めてガルフ・ストリームに白い航跡を刻んだヘミングウェイの『ピラール号』に、グレイの釣行記は積まれていたのだろうか?
 洋上で、憑かれたように巨魚を追っていたヘミングウェイのキューバの時代は、エドナとアリスの父にとっても、見果てぬ夢を追い求めた時代であった筈である。
 その父が、娘たちから贈られた本を、巡り巡って半世紀以上も後に、少しばかり海と魚に想い入れの強い男が、やたらと想像を巡らせながら同じ想いで頁をめくっている。
 エドナとアリスは、今もこの地球のどこかで平穏に暮らしているかもしれない…。この本を開くたびに彼女たちのことに想いを巡らせている日本人がいようとは、露も知らずに…。
『フィッシャーマン号』のようなスクーナーに、フィッシング・ボートを積んで世界の海を釣り巡りたい。いや、せめて私なりの『ピラール号』で大魚を追うのが関の山か…。
 私もまた、華と生きた男の現実を夢とする男なのだろう…。
 船は男の最高の玩具である。
 そして、心に残る大物釣りは、いつも記憶に新しい。
 70年近い歳月を経ても輝きを失わない一冊の本のように…。


(『パーフェクトボート』(ネコパブリッシング)掲載分より)


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