THE LATECOMER & GUYS

1927年、彼らは
ロングアイランドの
モントークにいた

文/中島新吾(なかじましんご)

1930〜1940年代のフネやエキップメントにスポットをあてたこの記事、結局シリーズ物のようになって続いてしまったが、今回が最終回である。前号(4)で総集編的なものをやっておいて、さらにもう1回というのも奇妙だが、中身を読んでいただければ、これまでに書き切れなかった部分についてのお話ということがお分かりいただけるのではないかと思う。どんなフネもエキップメントも、それを作る人間がいなければ生まれてこなかったのである。

フネとタックルの開発者

 シリーズではない、と言いながら、現代的なスポーツフィッシングのためのフネやそのエキップメントの黎明期たる1930年代あたりのことを書き続けてきた。さすがにこれだけどっぷりとその時代のことを記した資料にひたり、現代のフネに取り付けられているフィッシング・エキップメントのルーツを探るようなことをしていると、そういったエキップメント開発に関わってきた人物の名前というのが頭にこびりついて離れなくなってしまうものだ。たしかにその時代、今や伝説化した名アングラーというのはいろいろいて、資料を繰っているときにはそういった名前にも繰り返し出くわしているはずなのだが、なにしろ最初から興味の中心がフネそのものであったり、艤装品であったりするものだから、実のところ伝説のアングラーと呼ばれる人物の方はあまり覚えていないというのが本当のところである。
 この“シリーズ化するつもりのなかった、1930〜1940年代のフネとエキップメントシリーズ”に登場した数人の人物は、少なくともボートジャーナリストという立場の筆者にとって、興味ある伝説を持っていた。アーネスト・ヘミングウェイは特別だが、1940年代のフネとその造作を紹介した回をはじめ、その後も数回登場したジョン・ライボヴィッチ、アウトリガーの回のトミー・ギフォードとビル・ハッチ、チェアの回にはハーラン・メイジャーなど、それぞれが現代のエキップメントに通じる何かに関わってきた人々である。


ジョン・ライボヴィッチ(John Rybovich)によって作られたこの34フッターは、現代的な材質のアウトリガーとチェアを装備し、最終的に速度は30mphに達している。ライボヴィッチの先見性に注目したい。
 特にジョン・ライボヴィッチなどは、そもそもはビルダーでありながら、フネはもちろんのこと、アウトリガーやチェアといったエキップメントを現代に通じるカタチや材質に仕立て上げた人物で、いつか機会があったらじっくりとその足跡をたどってみたいところである。おそらく、いつか、何らかのカタチでその功績を詳しくお伝えできる機会もあるだろう(もちろん、そのためには十分な資料集めが必要で、それにはこれから取りかからなければならないわけだが)。
 トミー・ギフォードとビル・ハッチはチャーター・ボートのキャプテンであり、フィッシング・ガイドである。彼らは自身がビルダーというわけではなかったが、それでもよりフィッシングに適したボートを作り出すためのアイデアは豊富に持っていたし、新しいフィッシング・メソッドも開発した。そしてそのためのエキップメントの発展には、非常に大きな力をつくしている。
 ところが、最後のハーラン・メイジャーは少々異なる。彼は最初からフィッシングの世界にいたわけではなかったし、それに関わり始めたのもタックルやエキップメントを作る側から。
 彼が最初に注目されたのは道具を作る技術者としてであった。もちろん、その後、自身もアングラーとして名声を得るのだが、それでも彼の経歴は前述の数人とはまったく異なるものであった。

南カリフォルニアから

 ハーラン・メイジャーが高校卒業後にまず得た仕事は、フォード(あの自動車の)のセールスマンである。もともとは東部の出身らしいが、彼は南部や西部を回り、非常に優秀な成績を上げたとのことである。なにしろ1年で地区の売り上げを2倍にしたとか、南部の販売店では知らぬ者がいない、とかいう逸話があるくらいなのだ。ところが、彼は突然その職を失う。その理由というのがまた、普通は考えられないことだった。
 ある日、彼は女房持ちの同僚が他の女に入れ上げているのを見てしまった。まあ、よくある話ではある。ところが正直で純粋だった彼はショックを受け、そのまま上司に報告したのだ。と、上司は逆にそんな報告をしたメイジャーの方をかえって叱った。こうなると、彼はもうセールスの仕事は続けられなかった。そんな彼に助け船を出したのがジョージ・クラークである。彼はアングラーであり、後に南カリフォルニア・ツナクラブを組織する人物のひとりであった。これがメイジャーとソルトウォーターフィッシングが出会うきっかけだった。メイジャーはいくつかの職を変わったが、最終的には南カリフォルニア・ツナクラブのあるビルのスペア・ルームでルアーなどを作り始めるのである。


 メイジャーはウッドやメタルを加工するのがとてもうまかったという。彼の作るロッドやルアーは最初からとても美しいものだったらしく、クラブのメンバーのために必要なものを供給した残りを、外部に売りに出すようになり、やがて自身のショップを持った。そしてそれはすぐに南カリフォルニア最大のタックル・ビジネスに成長した。メイジャーのすぐれた才能は一気に開花したのである。自身の考案になるフィッシングチェアやジンバルを発表したのもこの時期で、そこは西海岸を代表するタックル会社と目されるまでになった。しかし、車のセールスのときと同様、メイジャーは不運な男であった。
 事業拡張のため、投機的に土地を買ったりし始めた矢先、彼は虫垂炎にかかる。現代の話ではない。1920年代、日本では大正時代のことである。それもかなり悪化させたため、入院費用も相当の額だったらしく、投資は不調となり、さらに彼が不在になったためタックルのビジネスも低迷と、悪いことが重なってしまう。結果、メイジャーの西海岸でのビジネスは失敗。最終的に彼はニューヨークへ移り住むことになる。1929年のことだ。
 しかし、彼はそれ以前から東海岸のスポーツ・フィッシング界と通じていた。ハーラン・メイジャーの名はカイト・フィッシングとともに東海岸に浸透しはじめていたし、フロリダでは3/6クラスのタックルで初めてセイルフィッシュを釣り上げたひとりとして記録されてもいる。そしてそのときのガイドはトミー・ギフォードであった。彼とメイジャーはニューヨークへ移り住む2年ほど前から訪れていたモントークで再会する。
ハーラン・メイジャー(Harlan Major)。フィッシングチェアの考案者であり、さまざまなタックルやエキップメントを発明、製作している。しかし彼はフィッシングの世界にとって“遅れてきた”人物であった。

トミー・ギフォード(Tommy Gifford)。彼が考えだした竹製のトラスビルト型アウトリガーは、材質の変更などはあったものの、その基本的なコンセプトは結局現代まで引き継がれることになる。

ギフォードとハッチ

 トミー・ギフォードはスプレッダーと張線で補強した、トラスビルト型のアウトリガーを作り出した人物である。
 最初はただの竹竿だった。しかし、それで長さが足りないとなると、竹をスリーブでつなぎ、真っすぐで十分な長さのあるものを作った。ところが、こんどは長くなった分だけたわみも大きく、とんでもない反発力を示すと分かるとスプレッダーと張線で補強して硬さを与えた。とにかくギフォードは簡単には満足しない。やれることはやってみるという姿勢がそこにはある。だからこそ、チャーターボート・キャプテンとしてもフィッシングのガイドとしても、多くのアングラーから信頼されたのだろう。しかし、彼は完璧なガイドではなかったとする人もいるようで、そういった人に言わせると、トミー・ギフォードというのは“遠慮”と“分別”が欠けていたというのである。たしかに、客が下手だと大声で叱るキャプテンという雰囲気が彼にはある。が、これはギフォード自身を直接知らない我々には分からない。
 ギフォードが活躍したのは一ケ所ではない。ハバナ、ウェッジポート、ビミニ、モントークetc……。しかも、彼は若いときからすでに一流キャプテンの仲間入りをしていた。彼は23歳の頃、マイアミで働いていたのだが、そのときすでにトミー・ギフォードという名前は全米のソルトウォーター・アングラーに知れわたっていたのだという。全米というのは少々大げさとしても、彼が若い頃からすでに一流の仲間入りをしていたことは確かなようである。
 ドロップバック・テクニックという技法を生み出し、その技法を用いるのにアウトリガーを利用したのがビル・ハッチだ。いまではゲームに確実にベイトを食わせる技法のひとつとしてお馴染みだが、それが生まれたのは1915年頃のことである。また、彼はそのフネにも特徴があった。“Patsy”と名付けられたそれは、スポーツフィッシングのためのものとしては最初のディーゼル・エンジン搭載艇だったのである。


 ハッチは“遠慮”とか“分別”をしっかりと備えた人物だったらしく、ギフォードなどとは違うタイプだったらしいが、一流のチャーターボート・キャプテンだった。彼は1938年、マイケル・ラーナーがニュージーランド、オーストラリアに遠征した際、ガイドとして同行している。
 ギフォードもハッチも、一流であるだけに活動の範囲も広かったが、ある一時期、同じ場所でチャーターボート・キャプテンとしての腕をふるったことがある。もちろん、他でも一緒になったことはあったろうが、その場所、モントークは特別だった。そこには有名無名さまざまな多くのフィッシングボートが集まってきたのだ。そしてボートだけではなく、西海岸からカイトを持ってきたハーラン・メイジャーもいた。

こういったスポーツフィッシング用のボートとしては、最初にディーゼル・エンジンを搭載した、ビル・ハッチの愛艇“Patsy”、後年はアウトリガーが変更され、デッキハウスの屋根にヘルムが設けられる。

ビル・ハッチ(Bill Hatch)。彼はアウトリガーを利用したドロップバック・テクニックを開発。現代でもベイトをうまく食わせる方法としてしばしば用いられている。いかにも紳士という風貌の通りの人物だったとか。

1927年モントーク

 ロングアイランドのモントーク。メイジャーもギフォードも、ハッチも、そこが大西洋岸で指折りのフィッシング・スポットと考えていた。そんなとき、オリバー・グリンネルという人物が、ここでリールとロッドによる大西洋初のブロードビル・ソードフィッシュのキャッチに成功したのである。1927年のことだ。結果、当時はいわゆる僻地だったモントークが、フィッシング界では一気に注目されることになる。
 メイジャーは大量のカイトをモントークに持ち込んだ。それは彼がニューヨークへ移り住む2年前ということになるが、すでにこの時点で西海岸でのビジネスに見切りをつけていたのかもしれない。当時、まだカイト・フィッシングはモントークでは普及していなかったため、それを馬鹿にするチャーター・ボートのキャプテンもいたようである。しかし、ある日、メイジャーとギフォードはそれをモントークで試し、ブルーフィン・ツナとホワイト・マーリンを上げた。モントークにおいてはカイトを使って初めてキャッチされたものだった。ギフォードは東海岸ではカイトの先駆者とされているが、それはこの時点から始まったのである。
 ギフォードによると「メイジャーは生真面目なヤツだった」という。たしかに、かつてフォードのセールスマンを馘になった理由からしてそうだが、彼の生真面目さはこのモントークでも発揮された。


 そもそも僻地ゆえにここで過ごせる連中は金持ちだけだったうえ、フィッシングのポイントとして注目されたために、モントーク・ヨットクラブのメンバーシップは相当に高額となった。メイジャーはこの地域を「ロールスロイス乗りの遊び場」と評している。彼はその時ソルトウォーター・フィッシングを庶民の、みんなが楽しめるスポーツにしたいと考えていたのだ。特にこのモントークでは、陸からのキャスティングも、手漕ぎボートによるフィッシングも、もちろんビッグゲームを狙ったそれも、すべてできそうだった。で、1934年、さまざまな障害を排し、メイジャーはペンシルバニア&ロングアイランド鉄道にひとつの企画を実行させることに成功する。それはアングラーのための“フィッシング・スペシャル列車”をマンハッタンからモントークまで、直通ノンストップで運行することだった。運賃はひとり$1.50。その夏、この列車は35,610人の“庶民アングラー”を運んだのである。

このLady Graceはトミー・ギフォードの愛艇。写真に写っているのが竹製のトラスビルト型アウトリガーで、長さは約50フィートあったという。デッキハウス上部の鳥居型のフレームはたぶん木製。

 さて、この“シリーズ化するつもりのなかった、1930〜1940年代のフネとエキップメントシリーズ”だが、ここでは“外伝”のつもりで、エキップメントではなくそれに係わった人間にスポットを当ててみた。ハーラン・メイジャーという人物は、フィッシングの世界では遅れてきた人(レイトカマー)だった。しかし彼はその歴史にしっかりと足跡を残している。