THE LATECOMER & GUYS1927年、彼らは
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1930〜1940年代のフネやエキップメントにスポットをあてたこの記事、結局シリーズ物のようになって続いてしまったが、今回が最終回である。前号(4)で総集編的なものをやっておいて、さらにもう1回というのも奇妙だが、中身を読んでいただければ、これまでに書き切れなかった部分についてのお話ということがお分かりいただけるのではないかと思う。どんなフネもエキップメントも、それを作る人間がいなければ生まれてこなかったのである。 |
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フネとタックルの開発者 |
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特にジョン・ライボヴィッチなどは、そもそもはビルダーでありながら、フネはもちろんのこと、アウトリガーやチェアといったエキップメントを現代に通じるカタチや材質に仕立て上げた人物で、いつか機会があったらじっくりとその足跡をたどってみたいところである。おそらく、いつか、何らかのカタチでその功績を詳しくお伝えできる機会もあるだろう(もちろん、そのためには十分な資料集めが必要で、それにはこれから取りかからなければならないわけだが)。 トミー・ギフォードとビル・ハッチはチャーター・ボートのキャプテンであり、フィッシング・ガイドである。彼らは自身がビルダーというわけではなかったが、それでもよりフィッシングに適したボートを作り出すためのアイデアは豊富に持っていたし、新しいフィッシング・メソッドも開発した。そしてそのためのエキップメントの発展には、非常に大きな力をつくしている。 ところが、最後のハーラン・メイジャーは少々異なる。彼は最初からフィッシングの世界にいたわけではなかったし、それに関わり始めたのもタックルやエキップメントを作る側から。 彼が最初に注目されたのは道具を作る技術者としてであった。もちろん、その後、自身もアングラーとして名声を得るのだが、それでも彼の経歴は前述の数人とはまったく異なるものであった。 |
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南カリフォルニアから |
| メイジャーはウッドやメタルを加工するのがとてもうまかったという。彼の作るロッドやルアーは最初からとても美しいものだったらしく、クラブのメンバーのために必要なものを供給した残りを、外部に売りに出すようになり、やがて自身のショップを持った。そしてそれはすぐに南カリフォルニア最大のタックル・ビジネスに成長した。メイジャーのすぐれた才能は一気に開花したのである。自身の考案になるフィッシングチェアやジンバルを発表したのもこの時期で、そこは西海岸を代表するタックル会社と目されるまでになった。しかし、車のセールスのときと同様、メイジャーは不運な男であった。 事業拡張のため、投機的に土地を買ったりし始めた矢先、彼は虫垂炎にかかる。現代の話ではない。1920年代、日本では大正時代のことである。それもかなり悪化させたため、入院費用も相当の額だったらしく、投資は不調となり、さらに彼が不在になったためタックルのビジネスも低迷と、悪いことが重なってしまう。結果、メイジャーの西海岸でのビジネスは失敗。最終的に彼はニューヨークへ移り住むことになる。1929年のことだ。 しかし、彼はそれ以前から東海岸のスポーツ・フィッシング界と通じていた。ハーラン・メイジャーの名はカイト・フィッシングとともに東海岸に浸透しはじめていたし、フロリダでは3/6クラスのタックルで初めてセイルフィッシュを釣り上げたひとりとして記録されてもいる。そしてそのときのガイドはトミー・ギフォードであった。彼とメイジャーはニューヨークへ移り住む2年ほど前から訪れていたモントークで再会する。 |
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ギフォードとハッチ |
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| ハッチは“遠慮”とか“分別”をしっかりと備えた人物だったらしく、ギフォードなどとは違うタイプだったらしいが、一流のチャーターボート・キャプテンだった。彼は1938年、マイケル・ラーナーがニュージーランド、オーストラリアに遠征した際、ガイドとして同行している。 ギフォードもハッチも、一流であるだけに活動の範囲も広かったが、ある一時期、同じ場所でチャーターボート・キャプテンとしての腕をふるったことがある。もちろん、他でも一緒になったことはあったろうが、その場所、モントークは特別だった。そこには有名無名さまざまな多くのフィッシングボートが集まってきたのだ。そしてボートだけではなく、西海岸からカイトを持ってきたハーラン・メイジャーもいた。 |
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1927年モントーク |
| そもそも僻地ゆえにここで過ごせる連中は金持ちだけだったうえ、フィッシングのポイントとして注目されたために、モントーク・ヨットクラブのメンバーシップは相当に高額となった。メイジャーはこの地域を「ロールスロイス乗りの遊び場」と評している。彼はその時ソルトウォーター・フィッシングを庶民の、みんなが楽しめるスポーツにしたいと考えていたのだ。特にこのモントークでは、陸からのキャスティングも、手漕ぎボートによるフィッシングも、もちろんビッグゲームを狙ったそれも、すべてできそうだった。で、1934年、さまざまな障害を排し、メイジャーはペンシルバニア&ロングアイランド鉄道にひとつの企画を実行させることに成功する。それはアングラーのための“フィッシング・スペシャル列車”をマンハッタンからモントークまで、直通ノンストップで運行することだった。運賃はひとり$1.50。その夏、この列車は35,610人の“庶民アングラー”を運んだのである。 |
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さて、この“シリーズ化するつもりのなかった、1930〜1940年代のフネとエキップメントシリーズ”だが、ここでは“外伝”のつもりで、エキップメントではなくそれに係わった人間にスポットを当ててみた。ハーラン・メイジャーという人物は、フィッシングの世界では遅れてきた人(レイトカマー)だった。しかし彼はその歴史にしっかりと足跡を残している。 |